イントロダクション

2011年3月11日以前、福井県の若狭湾周辺地域には14基(当時、廃止が決定していた「ふげん」除く)の原発が集中立地していた。10基の原発がある福島県の「浜通り」とともに、若狭湾周辺地域は「原発銀座」と呼ばれていた。

2011年3月11日、東北の太平洋沖で発生したマグニチュード9.0の地震と津波によって、福島第一原発事故が発生。放射性物質が広範囲に拡散、不可逆的被害を今ももたらしている。
福島第一原発事故は、もう一つの「原発銀座」にも影響を与えた。
日本海に面した敦賀半島には、福井県敦賀市の敦賀原発1、2号機、高速増殖炉もんじゅ、そして美浜町の美浜原発1、2、3号機が集中立地する。

松下照幸(1948年生れ)さんが暮らしているのは、美浜町新庄地区。新庄は、美浜町の南にあり、滋賀県境に接する山林地帯である。
松下さんは、美浜1号機が運転を開始する前の少年のころは、原発に賛成していた。町に原発ができると、道路がつくられ、町が発展すると教えられていたからだ。
松下さんは高校を卒業後、当時の日本電信電話公社に就職。福井市内の労組青年部で原発の危険性に関する情報を知り始め、労組内の運動として原発に反対した。しかし、あることをきっかけに原発に関して猛勉強し、確信を持って反対に転じた。

集落のほとんどの家から原発あるいは原発関連事業に働き手を出している中で、地元・美浜町内で「反対」の声を上げることははばかられた。そんなころ、松下さんの母親の、息子を信頼する勇気ある行動を見て、松下さんは考えを変えた。美浜町でもおおっぴらに反対の声を上げることにしたのだ。しかし、それは原発で働く町の人たちから厳しい視線を浴びる、町の嫌われ者になることでもあった・・・。
松下さんは原発にかわる地場産業があれば、原発で働かなくてもよくなるのではないかと地場産業を模索した。新庄地区の旧大日開拓村で「紅どうだんつつじ」という花木と、それを一人で守り続けるおじいさんに出会った。「愛らしい紅どうだんは集落の宝物」だと、おじいさんから花木を受け継ぎ、2002年に運営を始めた「森と暮らすどんぐり倶楽部」の事業の1つとして、守り育てることにした。

そして、2011年3月11日を迎えた。
日本各地が、原発再稼働か、廃炉かで揺れ始めた。
しかし松下さんは、美浜町民は「原発がある不安と、原発が無くなると雇用が失われる不安」に揺れていると感じていた。そして危機感を持ち、動き始めた・・・。